ぱんぺろ日誌

気が向いたトキに。なんだかんだと。

お絵かきしようぜ


 ボクはお酒が好きで、たまには飲み歩くのだけれど、カウンターで知り合ったにーちゃんやねーちゃんと意気投合することもしばしば
話題が仕事のこととなり
「絵の塾やってるよ。そう、お絵かき教えとーと」
と、答えるとだいたい珍しがられる
そこそこ当たり前の職業だと思っていたけれど、言われてみればこれまで、酒場で

 

 ……ほう君も絵を教えているのですか奇遇だねぇ

 いえいえ、先ほど帰られた○○さんも絵を教えてられていまして、夕べもここに見えられた五人の方が同じような塾をされていて、実に賑やかだったのですけれど、まぁ同業者の方がすこし集まればこれはなかなかのものです。ご承知の通り絵画塾なんざよっぽど手を抜かない限り人数は見れない。お月謝は増えない。その癖アトリエは画材ばかりがかさばって散らかり放題で、生ものの静物の管理はすこしでも気を緩めたらたちまち腐っちまうもんだし石膏像を並べたら、これは趣味といいますか奇癖といいますか、あいつの首の伸びかたが不思議だのこいつの髪かたちがいい重なりだ、なんてどうでもいいことぺちゃぺちゃ論議はじめても結論したことなんて一回もないでしょう? けれどそんな酔っ払い共がそれでもハキハキとしていれたウチが華だったと申しましょうか、突然じぃっとみなさん足靴の爪先になにか得体の知れないモノがつけた痕跡を見つけたように、一斉に目つきが険しくなりやがる。あんな時だけは、私は私だけでも、こいつら気ちがいの仲間にだけはなってたまるか、もの凄い勢いで酒は減るのに急にだあれも無口で、あぁ、こいつらとはやぱっりまったく違った人種だったのだと思えて、心底安堵したもんです。酔っ払いははじめのうちこそ無理遣りにでも見栄を張りたくって仕方ないものですが、それがいきなり胃液くさい歌を辺りはばからずうたい、何を思ったか電線にぶらさがったりしはじめる。ひょっとしてこいつら、そうして誰かに見てもらいたがためだけに、こんな自己破壊の衝動を何よりあり難たがってる狂った連中でしょうかねぇ? あぁいいえ、これはまったくあなたのことではありませんがね、ちょっと、まぁ、なんにせよほんのわずかの線のくるいや色のすき間の、こまかな絵具の練り加減にいちいち目をひからせている連中のことですから、他人のことばの節々にまで同じよう、聞き耳を立てている。そいつらがやっぱり同じ穴の狢な訳ですから、誰かがひとり、すこしだけ聴き役にまわった途端その気配を敏感に察知したのか、急にこの気配がまたたくまに拡がって、あっという間に次のことばを誰が言うのか、何を言うのか、もう、まるでいつものアトリエの風情といったもんですよ。あたしはいい加減、息苦しくなっちまいましていっそ手洗いにでも立つ振りでもして、払いはつけにしてひと足お先に帰っちまおうか、なんて考えも頭をよぎるのですがこちら様にももうずいぶん帳面させてもらっているものですからそうもいかず、かといって絵のこと以外にたいした話題を引き出すなんて社交性もない。どいつもこいつも蓋を閉じた貝みたいに口を結んで、黙々とさかずきばかり重ねながら、誰かが「ではそろそろ私はお先に失礼」なんて席を離れるのを待っている。ただ自分から席を立つという勇気なんぞ持ち合わせていない連中ですからね。それもそもそも絵を描くだけではもの足らずに人様に絵を教えましょうという傲慢な連中だ。頑固さにかけては人後におちない。こいつらの無言の会話というヤツは実に歯切れの悪いもので通夜のほうがよっぽど愉快にすごせますよ。たまの息抜きに寄った酒場でこんなみじめな思いをして、なんでこんな仕事を選んじまったんだろう、たまに河原にでもいっていっそこのままここでお仲間にでもなって、これまでの人生や残された余生をひっくり返して眺めるのも悪かねぇかもなぁ、なんて思いつめたりしましてね……、

 

 こんな会話を交わしたことは無論一度も無く、おそらくこれからもないだろう
(あったらイヤだw)
ボクが今の塾で絵を教えることになった切欠は、大学受験でお世話になった師匠が病気をし、後を託されたからですその当時は東京で就職しており、跡を継ぐ為に春になったら離職すると伝えせっかく仕事辞めるんだ、季節も頃合、頑丈なママチャリでも買って、野宿しながら九州まであちらこちらフラフラ立ち寄りながら二、三ヶ月くらい掛けてのんびり帰ってやろうと計画を立て、先生が倒れて以来アトリエの面倒を見ていたかつての受験仲間に伝えたところ、すぐ戻ってこい。すぐ授業してくれと懇願され、仕方なく夜行バスにもぐり込みました
それからはや、11年? 12年? 一日千秋
学生の頃から、ことある毎に絵は教えていたけれど、自分の教室を持つなんてのはもちろん初めてで
ちょっと緊張したなぁ、若かった
頭の中は今も子どもだけど

 

 さて
絵を教えている、と聞くと多くの人が、
自分は絵が苦手または描けないと答える
一種の公式のように、返事が返ってくる
ボクは楽器でも絵でも、人の何倍も練習してやっと人並みだったから、描けない人の気持ちは痛いほどわかる
楽器演奏、運動、作文、そして作画
それぞれの分野に向き不向きはあるが、一番才能が要らないのは、絵です
断言できます
必要なモノは根性ひとつ
必要な才能は根性、といったほうがより精確かな
絵が描けない、絵は苦手です、絵心がない
そのように多くの人が口を揃えます
しかし、それは絵が「描けない」のではない「描いてこなかった」だけなんです
子どもの頃学校で無理やり描かされ、優劣をつけられ、素晴らしい先達の作品を見て
「あぁ、俺にはボクにはわたしには無理」
と決めつけているだけ
誰でも最初はヘタクソです
描けなくて当たり前
この、「描けなくて当たり前」が、どのようにして「描ける」に変化していくかは、才能の問題ではありません
センスでもありません
況してや、「絵心」などという意味のひとり歩きする得体の知れないことばでは、決して満たされない
(えごころ、という語感はとてもすきだけど)

 また、写実はともかく
小学校の図工の教科書に載っている、名作の図版
これも少年少女のこころを縛ってゆくように思えます
たとえば、大ピカソ
青の時代はまだしも、キュビズム時代の絵なんて
なんじゃこりゃ? ですよ
「泣く女」をはじめて見たトキの感情は今でもはっきり思い出せます
「なんこれ、ぶきみ~www」みんなで大爆笑
これを見て、う~ん凄いと首を捻る大人の嘘を信じられる筈がない
浅井忠やマグリットは格好いいと思ったけれど
ムンクやスーチン、なんだか呪われそう
マティスデュフィゴッホ梅原は落書き
ポロックに至っては、なにこれ食えんのか?
といった感想で、それをどなんに素晴らしいと連呼されたって、ピンとこないものはいくら眺めてもピンとこない
あしたのジョーのほうが千倍もかっこういいよ
火の鳥のほうが、遥かに新鮮だよ
それが子どもの頃のボクにとっての「芸術」で、だったら「芸術」のこと考えるのはちょっと脇においとこうというのが、当時の結論でした
多くの人が、どこかでそれに類した感情をひきずっているように思います
芸術は素晴らしい
ピカソは天才
そんな社会の下地があって、しかしそれが理解できない場合

芸術理解不能≒私には絵心がない

そう無意識に結論づけされていったとしても、これはむしろ精神の自然な成長の一形態と見るべきでしょう

 

 しかし、芸術が理解できなくても、絵は描けるのです
絵が描けない、という方々にまず伝えたいのは
「みな日本語が喋れる」ということです
ことばを喋るということは、人間のもっとも高度な精神活動の発現です
そのとてつもなく高度な行為を、個性を自然に備えた成熟したことばを用い会話まで行える
(そもそもことばは会話するための道具なので、これも当たり前ですが)
これは、決して特別なことではなく、環境が整備されていることの証です
ボクがうまれた時も、日本語を喋ることはできなかった
当たり前のことです
ところが、毎日々々日本語は降り注いでくる
こちらにその気がなくても、親からだけでなく、テレビからもラジオからも、近所のスーパーでも、主題歌や落語や物売りの声があふれ返り、寝床や背中や乳母車の中で、ずーっとこれらの日本語を聞き続けてきた。その、ほとんど無条件のことばの膨大な流れにさらされ続けた経験の上に、やっと自分のことばが、ほんの僅かづつだが使えるようになっていく

「うまれた時から、ことばが溢れていた」

これが、やがてことばが喋れるようになる為の条件

 

 では、絵の場合どうだろう
絵が描けるようになる条件とはいったいどのようなモノなのだろうか
「絵を描く」と、ことばにすると単純無比だが、しかしそれを人が行ったモノとして分析する場合

・対象を見る
・対象を描く
・作品を見る

という過程に分解するととっかかりやすい

 まず、見る
絵を描く為に見る場合、ただ生活する為だけに見る時と大きく違って、対象を具体的に分析する必要があります
ここにカウンターに一本のビール瓶があります
それを大雑把な説明にまとめると、縦長の円筒
たいていその円筒を見下ろして描くでしょう

・見下ろされた
・縦長の
・円筒

そして、描きます
すると、カウンターでどんなに
「描けない無理ぃ!」
と連呼していたおにいちゃんも、ちゃんと描けるのです
縦長のものをとりあえず縦長に
円筒のものをどうやら円筒に
どんなにパースが狂っていても、ちゃんと見下ろした絵図として

それが、あまりにも目の前に置かれた実物と違って、それこそ理解不能だったピカソの名作のように、下手くそにしか描けない
だから意気消沈してしまう
しかし待って
縦長の物を、ちゃんと縦長に
円筒の物を、しっかり円筒に
この人、見下ろして描いたんだなぁ
と、実物が無くても、見た人には伝えられる程度には、しっかりと描けている
写実の習作で鍛えるべき第一要素を

・見えるものを、見えたように伝える

とするならば、この素描はその最大の目標をすでに易々と達成しているのです

 描かれたモノを見て、まず確認しなければならないのは、対象の構成要素を、作画が満たしているかです
見て、描き、見る
そして、見較べる
そこに認められるのは、観察の偏りによって生じた不用意な描画の積み重ねです
それらは対象と絵図の間に様々な誤差となっていますが、注意深く見直し、落ち着いて修正を加えていくことによって、確実に実物に近づいていきます

 

 私はこれまでそれこそ数え切れないほどの人に絵を教させて貰いました
なかには七十歳近くになって、中学の写生大会以来、筆を持ったことなんてないという方、それと同じような、完全な初心者の方も少なくありません
しかし、この「縦長の円筒を見下ろして」を描けなかった方には一度もあったことがありません
誤差の修正には、その絵の今の状態に適った、手順がうまれます
注意したいのは、訂正すべき間違いを放置したまま、気の向く箇所に加筆しても、根本が狂っていたのでは、いくら一所懸命に描いても実物に接近することは絶対にありえません

逆に言えば、どんなに間違ってもいい
じっくり観察して描いて、そこから確実に修正を加え入れる手間さえ惜しまなければ、作品は驚くほど実物に近づく
少なくとも、描き手が最初に描いて、見せるのを恥ずかしがった時の絵を思い出して比較すると、描き手が驚くほど進歩するのです
ですから、絵を描く上での肝心は

 ビビらず、描く

もうこれだけと言っても過言ではありません
絵が苦手、という方の心理の大部分が、この
ビビりの裏返しです
人間の超・高機能な視覚器官を経て得た、像情報と、自らの幼稚な作画とのあまりもの断絶に、多くの人が幼い頃は自然に実行できていた無邪気な作画欲を挫かれ
どうしても、絵の得意な友人たちがさらに上達してゆくのを眺め
芸術とかいうワケワカランことばの暗黒面に圧され
いつしか真っ白な紙にグッ、と線をブツける勇気が消えてしまっただけなのです

赤ん坊が、ことばを発することが出来なかったように
絵が描けない人は、まだ作画回路が未接続なだけです
それは、描けなくて当たり前の状態に過ぎず、しかし
赤ん坊と違ってすでに備わった高度なことばが、芸術だの絵心だのの漠然とした概念が、こころを鎖で縛っているだけなのです
もちろん、さっさか上達するモノではありません
これもことばと一緒
長い時間をかけて、自分の中に作画の作法を組み上げていかなくてはならず、そこで問われるのが根性、ということになります

 ただ、この「根性」も昭和的前時代的スパルタ式根性である必要なんてこれっぱかしもなく
ここで語らせて頂いた「根性」は「才能」への反義語的な意味で便宜上使わせてもらったものです
根性ではなく「経験」としようかいつも迷うところですが、お互い顔をつき合わせての会話であれば、語義を会話の流れで適度に着色できるけれど、それを作文でやるのはとっても冗長になるので、「根性」を採用しました笑
丁寧な作画と、勇気と、経験
それも作画しながら自然と備わる類の、描くことでしか育まれない、丁寧さ、勇気、経験です
何度も繰り返しますが、絵を描くことに特別な条件は要りません
それは描くことで拓かれる、それまではまったく未知の領域で、しかも誰も傷つけることもありません
題材によりますが、人の目に触れない限り、描くという行為が誰かを傷つけることは絶無です
だから、恐れないで
こころ、が、生活や経験の上にだけ発生したように
絵ごころ、も作画経験の上にしか備わりません
つまり、誰だって描いていくことを諦めなければ、その人だけの絵ごころが必ず見つかるのです

 

 絵は、ことばのように、それが無ければ人間社会の営みに困難をもたらすモノではありません
人は絵で会話しないから
象形文字等のことは、ここでは触れるまいぞw)
また人は絵で計算しません
人は絵を食べて生きる訳にいかず
(まれに食っちゃうって人もあるみたいだけどw)
絵を恋人にしたとあっては、あっという間に人類に子孫が絶えてしまうから
絵は描かなくったって、それはそれで済むんですよね
でも、だからこそたのしい

 音楽と似ていて、非なるもの
音楽もなくたって、生きるだけなら可能ではある
絵ごころないけど、カラオケはだい好きな方って
カラオケは歌わんけど絵は得意って方よりずいぶん多くて
仮にすっげー音痴でもたのしそうに歌って
周りをたのしくさせることだってよくある
同じ力は、絵にも必ずあると、信じてます
まる