ぱんぺろ日誌

気が向いたトキに。なんだかんだと。

永遠のピーター・ラビット

みんなだいすき! ピーター・ラビットのえほん


世界でいちばん有名なうさぎ大戦!

数十年もはるか、開始されて幾瀬ミッフィーとピーターはたった今もあらそっている

かわゆいうさちゃんによる血みどろの死闘! 

うさぎの決闘は、野良猫のそれに匹敵するほど残酷で殲滅的だ

ミッフィー、ピーター両陣営は今この瞬間も新たなファンを獲得しつづけており、銃火をまじわらせており、ファンはファンで、ひとりのファンは自分がファンであることだけにとどまらずその孫やひ孫、次の世代へとファン・バトンをわたし、渡しおえてようやく現世での役割を果たしたかとながい眠りにつく

そうして次のファンはまたおおいなる意思のもとどちらかの陣営の一員となって戦いにおもむく、人あるかぎり、心の弾、つきることなきあらそい

答えなど永久に出るはずのないあらそい

けっして答えを出してはならない出来レースなんていっちゃダメ!

それを現代社会に置き換えば、為替相場のようにうさぎ人気は乱高下をくりかえし、地域別国別世代別性別、あらゆる要素が複雑に絡み合う、人気インフレーションを競い合う、まともな統計などとてもとれない、うさぎは人口に膾炙している


もちろん。ディック・ブルーナビアトリクス・ポターの作品はうさぎだけでなく、さまざまなどうぶつたちもぞんぶんに描かれており、うさぎに負けずおとらずどれもこれも一撃必殺にして百発百中の魅力にあふれている

だがよ。ディック、ビアトリクスのふたりがえがいてきた主人公たちの代表格となれば、やはりミッフィーとピーターが東西の横綱

もちろん、ボクも、どちらもだいすきです

告白するまでもなく、愛しています

だので


「オレはミッフィーだな。むしろうさこちゃん

(ボクはうさこばあちゃん・ナトキン派!)

「うーん・・・・、ワタシはベンジャミンのパパ!」

(いえモチロン、択ぶの普通にアリですヨ)

など、どちら、と択べるむきには眉につば

(つーかベンジャミン氏とかおまえドMか?)


とまれ。ながく古典として人気を二分してきたミッフィーとピーター二羽のうさぎでありますが

そこに割っている新世代のリサとガスパール、おまえらもうさぎか?

否。なぜなら本人たちが、違うよちがうと強弁するからです

ならばムーミンも、カバでない?

ムーミンの、みずからをムーミンだと言い張るすがたがこの上なくかわゆい

こんな、◯◯がみずからの◯◯を否定し△△となれる、

「わたしムーミン・パパはただムーミントロールであって、けっしてカバではありません!」論をすこしおしひろげれば、

きっと誰もがなににだって成れる未来はすぐそこだ

いつからだって、それからだって、誰もが成れる、たらればの魔法をつかって、花屋や詐欺師や釘師にだ。鳥にも猿にも亀にもだ

そうしてボクはボクでもキミでもなくなって、鵺になれるかもしれない

山上にすむ鬼になれるかもしれない

やがて、冷えつづけるまくろい星雲といっしょにも


この、なににでも成れる魔法

これって、子どもがおとなの階段をのぼっているうち、つい、つい、どこかにおき忘れてしまうものだそうですね

子どもがおとなになるにつれ、

おべんきょうやおしごと、

お金や服装、車や宝石などに気がいって、

恋や怒りにいそがしくするうち、

夢は映画や雑誌でみるようになって、

そうして、じぶんがなににでもなれたことを忘れてつくるおとなの世界は、きっと毎日たいくつで

だからリサとカスパーはうさぎかと問われれば、どうしても否だ


 * * *


さて

ボクがはじめて知ったパイは、小学三年ころだったろう、山崎製パンのりんごパイだった

(はじめての紅茶はリプトンのティーパック♡)

シンプルな意匠の袋の中で、はじめてのパイはすっかり冷えていたけど、サクサク生地にあのとろけるりんごジャム・・・・、う、うまい

わすれられない食体験ってやつだが、それまでパイなんて見たことも聞いたこともなかった田舎で、ピーター・ラビットをいろどるうさぎパイとヤマザキりんごパイとを、おなじ『パイ』でむすびつけることなどできなくて当然というものだ

育った土地で、うさぎ料理といえばおみそ汁くらいだったから

『うさぎのパイ』ってなに! と、ビアトリクスのえほんを読むたび問いてきたが、誰も説明などしてくれず、わたしはそれをおもちゃかなにか。もしくはうさぎのしっぽだか干した猿の手のようなものかしらん、と、いったん想像し、それからすぐに『うさぎパイ』の存在を忘れていたのだ

そして小学五年の三学期から、ごみごみした都会へ引っこしてきて、ミスター・ドーナツではじめてミート・パイを食べたトキ

(お店の人がレンジであたためなおしてくれたミートソースのうまさ!)

に、あゝ、ピーターのおとうさんで作ったうさぎのパイって、こーいう食いものだったんだ!

と、いう真事実に驚愕

かわいらしいえほんにだって、しっかりとほんとうのことがたくさん描かれてあったことをおもいだし、ボクはまたビアトリクスの作品を読むようになった


 * * *


幼児期はおきに入りのらくがき帳として、やや長じてからは摸写対象として散々開いてきたビアトリクスのえほん。それは、おとなになって読みかえしてもいまだ、面白い

やさしくて、あたたかいまなざし。それは彼女の偉大さの一端ではあるが、子どもの頃から尊敬してきた、きびしくするどい写実的な作画、語る口調の戯曲化されたやさしいリズム、妥協とは無縁のリアリズム。それらが渾然として、ながいあいだあこがれだった、かけがえのないえほんたち

ほんとうにうつくしいものが、どういったものであるのかが、ただのファンタジーではない。いのちどうしの係りの中でもいちばんたいせつな、食べる、生きる。といった本質が見えにくい現代において、その根本をわかり易く、そして強くおしえてくれる

また、人と人との関わりも、どうぶつたちのものがたりに置きかえ丁寧に諧謔されていて、

単に食べる、が、生きる、だけでない、

あそんだりなげいたり、一緒になってよろこぶ、なげく

いのちあるものすべてへむけた慈しみ、

そんな、単純な、いのちだけをみれば、都会のカラスにだって、認めることはむずかしくない、生活がある

ビアトリクスの、やわらかくあたたかい、福音のような感性と、冷徹、ともいえる観察眼にささえられたことばと作画でつむがれる

ひさしぶり読みかえしたが、やはり全作が名作

読めば、常にあたらしい


 * * *


この名作群をらくがき帳にしていた頃、ボクの手によって、解読不能のうずまき紋やいなずま紋にえほんが侵食されるのを、母ははじめしかりやがてあきれ、それからかなしそうな顔をして、しまいにあきらめていたのをはっきりおぼえている

だから、母もだいすきだったのだとおもう、ビアトリクスのえほん

ちょうどその頃、日本でもピーター・ラビット旋風がまきおこっていたようだし

(そんな風潮があったようだ)

たとえばとりあえずズラリ、百科事典を揃えることが家長と奥さまの目的地で、自分と他者とを、他家と自家とを比較、均等化するための基本線は、百科事典やピーター・ラビットの」ほん以外にもいくつもあった

いつかはクラウン

う〜ん、マンダム

脇の下にシュー、8×4

にっぽんの夏、キンチョーの夏

しょ〜ぅち〜くばい🎶

バブル前夜、あらゆる巨大資本が右へ倣えを強いた時代だったのはまちがえないが、それでも

ボクの落書きに踏みこまれ、ビアトリクスの作画が塞がれてゆくのを見ていた母親の、瞳の、かなしみ

それは、はっきりと覚えている

きっと、母もこのえほんがほんとうにすきだったのだとおもう

母が、どんなきもちでこのえほんを見ていたのか

こんど訊こう

たぶん、こむずかしいことなんてなく、ただ

かわいい♡、と、今ならいってくれて

それからふたりでもりあがるんだ

これから、むかしよりすきになってもらえるように

またすこしづつそろえて、母に贈ろう


あの、らくがきしたたのしさもはっきりとおぼえているんだよね

脳の昂奮が頁の余白を、クレヨンがグイグイ線となってはしる

うつくしい絵柄に、おさない精神がふれるのは、ただ読むだけでない、眺めただけでない、無心にちかい心境で、突っ込んでいった記憶

それでえほんをずいぶんダメにしちゃったけど、ボクが絵を好きになった、これが原点のひとつ

それも、母につたえたい


 * * *


ピーター・ラビットにはじまる、ビアトリクのえほん

たくさん出てくるどうぶつたちは、みぃんなかわいくて、みぃんなどこかぬけていて、ちょっとこわい

もちろんにんげんたちも

マクレガーさん夫妻はいつもだいにんき

キリキリかりかり、あくせくしたおとなの方には何度もなんども目がさめるまで読んできかせたい、世界中の子どもたちみんなに、永遠にとどけとねがう創作物


ただひとつ、

装丁だけがむかしとずいぶんちがっていて、それがすこしざんねん。

今のも、もちろんすてきなのだけど

かつてのほうがずっと格調たかかったよ



*アリス・ファン、またミッフィー&ピーター以外のすべてのうさぎ・ファンの方々には平身低頭、謝罪します。ミッフィー&ピーターの二元表現はこの場の要請ということで

・・・・何卒おゆるしを(_ _)・・・・