ぱんぺろ日誌

気が向いたトキに。なんだかんだと。

ひとりを愛しつづける

遠藤周作のエッセイ

すてきな題名、中味はまぁ微妙

「沈黙」「侍」等、名作をモノした著者にしては論理がゆるく、一定の読者層に向けられた迎合性があまい(遠藤の作文には稀にこうしたことがおこる)、かつての日本社会を形成した一面的なおだやかな論調の延長にあたり、旧弊。現代に叶う普遍性にうすい

しかし。なんてすてきな表題だろう

『ひとりを愛しつづける』


ひとり、を、愛しつづける

なんど声にしてもあきない響きがある

「愛」を、みかえりを一切もとめない、無償のやさしさを限りなくそそぎつづける行為とすれば

「愛してるっ、と言ってぇ〜ん♡」

「おまえだけ、愛してる、ぜ(ブチュ♪)」

こんな愛はことばに馴れたかりごとにすぎん

モチロン。それは、それで善しです

(そんな愛ボクだっていつだってしたい)

人は古来、惚れやすいいきものと研究されていて、それが悪いことだとは思わない。だって、恋、は、いきることの現象の一環、おおくの人の人生に、なんどもくりかえす不断の一幕

源氏からこっち、ものがたりの中心をいちばん占めてきただろう主題は、まちがえなく恋

恋十色、おしみない恋は時にくるしみでもあるけれど、おこる前提としてのいのちの産物として、恋情があることこれは、やはり人であるごほうびの類だ


そこで🐥鳥

パタパタとりさん

よく聞くはなしだが、鳥さんの場合、大型の猛禽や鶴などは、よっぽどのことがない限り、ひとりを愛しつづける、のだという。契りをかわした相手をけっしてうらぎらない。連れ添いが亡くなっても再びの恋はせず、死ぬまで孤りを貫くコトも、あると云う

川ぺりや、氷原、あるいは山塊を孤り舞う、孤独な影は、うつくしい

逆におしどりなどはお盛で有名

ご乱行ですぜ和尚様的な

人類みな兄弟的な

おしどり夫婦、なんというかりそめ、あまりにも事実と乖離した喩えも、だから、いつも斬新で、ほほえましくすきだ

人間は、どちらかといえばおしどり的思想の実践者であって、猛禽的なふるまいは、あくまで。理性でおさえつけたもの

🙈🙉🙊猿から進化した我々にとって本質的に、ひとり、を、愛しつづけることは至難なのだろうか、ともおもう


仮に、ひとりを愛したとして

じゃそのひと以外は愛さないのか?

ひとつのいのちを愛する人が、他の「ひとり」を愛するとなると途端に難しい。愛さないばかりか、敵とみなすこともすくなくなくて、そんな、特定のひとりを愛せても、他のおおくは、愛さない「愛」を、もちろん無意味だとは思わないが、ほんとうの「ひとり、を、愛しつづける」は、やがてきっと「みんな」を、いつまでも愛しつづける。そんな愛だと思う

世界を愛する

すべてを愛する

そんな夢をみて


南極外洋を周回するアホウドリ

みなみへと去った、ツバメたち

こんやはトリ刺し🐣

うまれかわれるなら、鳥たちよ

ホークス勝利で盛り上がった昨晩の、小料理屋だった


 * * *


永遠のピーター・ラビット

みんなだいすき! ピーター・ラビットのえほん


世界でいちばん有名なうさぎ大戦!

数十年もはるか、開始されて幾瀬ミッフィーとピーターはたった今もあらそっている

かわゆいうさちゃんによる血みどろの死闘! 

うさぎの決闘は、野良猫のそれに匹敵するほど残酷で殲滅的だ

ミッフィー、ピーター両陣営は今この瞬間も新たなファンを獲得しつづけており、銃火をまじわらせており、ファンはファンで、ひとりのファンは自分がファンであることだけにとどまらずその孫やひ孫、次の世代へとファン・バトンをわたし、渡しおえてようやく現世での役割を果たしたかとながい眠りにつく

そうして次のファンはまたおおいなる意思のもとどちらかの陣営の一員となって戦いにおもむく、人あるかぎり、心の弾、つきることなきあらそい

答えなど永久に出るはずのないあらそい

けっして答えを出してはならない出来レースなんていっちゃダメ!

それを現代社会に置き換えば、為替相場のようにうさぎ人気は乱高下をくりかえし、地域別国別世代別性別、あらゆる要素が複雑に絡み合う、人気インフレーションを競い合う、まともな統計などとてもとれない、うさぎは人口に膾炙している


もちろん。ディック・ブルーナビアトリクス・ポターの作品はうさぎだけでなく、さまざまなどうぶつたちもぞんぶんに描かれており、うさぎに負けずおとらずどれもこれも一撃必殺にして百発百中の魅力にあふれている

だがよ。ディック、ビアトリクスのふたりがえがいてきた主人公たちの代表格となれば、やはりミッフィーとピーターが東西の横綱

もちろん、ボクも、どちらもだいすきです

告白するまでもなく、愛しています

だので


「オレはミッフィーだな。むしろうさこちゃん

(ボクはうさこばあちゃん・ナトキン派!)

「うーん・・・・、ワタシはベンジャミンのパパ!」

(いえモチロン、択ぶの普通にアリですヨ)

など、どちら、と択べるむきには眉につば

(つーかベンジャミン氏とかおまえドMか?)


とまれ。ながく古典として人気を二分してきたミッフィーとピーター二羽のうさぎでありますが

そこに割っている新世代のリサとガスパール、おまえらもうさぎか?

否。なぜなら本人たちが、違うよちがうと強弁するからです

ならばムーミンも、カバでない?

ムーミンの、みずからをムーミンだと言い張るすがたがこの上なくかわゆい

こんな、◯◯がみずからの◯◯を否定し△△となれる、

「わたしムーミン・パパはただムーミントロールであって、けっしてカバではありません!」論をすこしおしひろげれば、

きっと誰もがなににだって成れる未来はすぐそこだ

いつからだって、それからだって、誰もが成れる、たらればの魔法をつかって、花屋や詐欺師や釘師にだ。鳥にも猿にも亀にもだ

そうしてボクはボクでもキミでもなくなって、鵺になれるかもしれない

山上にすむ鬼になれるかもしれない

やがて、冷えつづけるまくろい星雲といっしょにも


この、なににでも成れる魔法

これって、子どもがおとなの階段をのぼっているうち、つい、つい、どこかにおき忘れてしまうものだそうですね

子どもがおとなになるにつれ、

おべんきょうやおしごと、

お金や服装、車や宝石などに気がいって、

恋や怒りにいそがしくするうち、

夢は映画や雑誌でみるようになって、

そうして、じぶんがなににでもなれたことを忘れてつくるおとなの世界は、きっと毎日たいくつで

だからリサとカスパーはうさぎかと問われれば、どうしても否だ


 * * *


さて

ボクがはじめて知ったパイは、小学三年ころだったろう、山崎製パンのりんごパイだった

(はじめての紅茶はリプトンのティーパック♡)

シンプルな意匠の袋の中で、はじめてのパイはすっかり冷えていたけど、サクサク生地にあのとろけるりんごジャム・・・・、う、うまい

わすれられない食体験ってやつだが、それまでパイなんて見たことも聞いたこともなかった田舎で、ピーター・ラビットをいろどるうさぎパイとヤマザキりんごパイとを、おなじ『パイ』でむすびつけることなどできなくて当然というものだ

育った土地で、うさぎ料理といえばおみそ汁くらいだったから

『うさぎのパイ』ってなに! と、ビアトリクスのえほんを読むたび問いてきたが、誰も説明などしてくれず、わたしはそれをおもちゃかなにか。もしくはうさぎのしっぽだか干した猿の手のようなものかしらん、と、いったん想像し、それからすぐに『うさぎパイ』の存在を忘れていたのだ

そして小学五年の三学期から、ごみごみした都会へ引っこしてきて、ミスター・ドーナツではじめてミート・パイを食べたトキ

(お店の人がレンジであたためなおしてくれたミートソースのうまさ!)

に、あゝ、ピーターのおとうさんで作ったうさぎのパイって、こーいう食いものだったんだ!

と、いう真事実に驚愕

かわいらしいえほんにだって、しっかりとほんとうのことがたくさん描かれてあったことをおもいだし、ボクはまたビアトリクスの作品を読むようになった


 * * *


幼児期はおきに入りのらくがき帳として、やや長じてからは摸写対象として散々開いてきたビアトリクスのえほん。それは、おとなになって読みかえしてもいまだ、面白い

やさしくて、あたたかいまなざし。それは彼女の偉大さの一端ではあるが、子どもの頃から尊敬してきた、きびしくするどい写実的な作画、語る口調の戯曲化されたやさしいリズム、妥協とは無縁のリアリズム。それらが渾然として、ながいあいだあこがれだった、かけがえのないえほんたち

ほんとうにうつくしいものが、どういったものであるのかが、ただのファンタジーではない。いのちどうしの係りの中でもいちばんたいせつな、食べる、生きる。といった本質が見えにくい現代において、その根本をわかり易く、そして強くおしえてくれる

また、人と人との関わりも、どうぶつたちのものがたりに置きかえ丁寧に諧謔されていて、

単に食べる、が、生きる、だけでない、

あそんだりなげいたり、一緒になってよろこぶ、なげく

いのちあるものすべてへむけた慈しみ、

そんな、単純な、いのちだけをみれば、都会のカラスにだって、認めることはむずかしくない、生活がある

ビアトリクスの、やわらかくあたたかい、福音のような感性と、冷徹、ともいえる観察眼にささえられたことばと作画でつむがれる

ひさしぶり読みかえしたが、やはり全作が名作

読めば、常にあたらしい


 * * *


この名作群をらくがき帳にしていた頃、ボクの手によって、解読不能のうずまき紋やいなずま紋にえほんが侵食されるのを、母ははじめしかりやがてあきれ、それからかなしそうな顔をして、しまいにあきらめていたのをはっきりおぼえている

だから、母もだいすきだったのだとおもう、ビアトリクスのえほん

ちょうどその頃、日本でもピーター・ラビット旋風がまきおこっていたようだし

(そんな風潮があったようだ)

たとえばとりあえずズラリ、百科事典を揃えることが家長と奥さまの目的地で、自分と他者とを、他家と自家とを比較、均等化するための基本線は、百科事典やピーター・ラビットの」ほん以外にもいくつもあった

いつかはクラウン

う〜ん、マンダム

脇の下にシュー、8×4

にっぽんの夏、キンチョーの夏

しょ〜ぅち〜くばい🎶

バブル前夜、あらゆる巨大資本が右へ倣えを強いた時代だったのはまちがえないが、それでも

ボクの落書きに踏みこまれ、ビアトリクスの作画が塞がれてゆくのを見ていた母親の、瞳の、かなしみ

それは、はっきりと覚えている

きっと、母もこのえほんがほんとうにすきだったのだとおもう

母が、どんなきもちでこのえほんを見ていたのか

こんど訊こう

たぶん、こむずかしいことなんてなく、ただ

かわいい♡、と、今ならいってくれて

それからふたりでもりあがるんだ

これから、むかしよりすきになってもらえるように

またすこしづつそろえて、母に贈ろう


あの、らくがきしたたのしさもはっきりとおぼえているんだよね

脳の昂奮が頁の余白を、クレヨンがグイグイ線となってはしる

うつくしい絵柄に、おさない精神がふれるのは、ただ読むだけでない、眺めただけでない、無心にちかい心境で、突っ込んでいった記憶

それでえほんをずいぶんダメにしちゃったけど、ボクが絵を好きになった、これが原点のひとつ

それも、母につたえたい


 * * *


ピーター・ラビットにはじまる、ビアトリクのえほん

たくさん出てくるどうぶつたちは、みぃんなかわいくて、みぃんなどこかぬけていて、ちょっとこわい

もちろんにんげんたちも

マクレガーさん夫妻はいつもだいにんき

キリキリかりかり、あくせくしたおとなの方には何度もなんども目がさめるまで読んできかせたい、世界中の子どもたちみんなに、永遠にとどけとねがう創作物


ただひとつ、

装丁だけがむかしとずいぶんちがっていて、それがすこしざんねん。

今のも、もちろんすてきなのだけど

かつてのほうがずっと格調たかかったよ



*アリス・ファン、またミッフィー&ピーター以外のすべてのうさぎ・ファンの方々には平身低頭、謝罪します。ミッフィー&ピーターの二元表現はこの場の要請ということで

・・・・何卒おゆるしを(_ _)・・・・


お絵かきしようぜ


 ボクはお酒が好きで、たまには飲み歩くのだけれど、カウンターで知り合ったにーちゃんやねーちゃんと意気投合することもしばしば
話題が仕事のこととなり
「絵の塾やってるよ。そう、お絵かき教えとーと」
と、答えるとだいたい珍しがられる
そこそこ当たり前の職業だと思っていたけれど、言われてみればこれまで、酒場で

 

 ……ほう君も絵を教えているのですか奇遇だねぇ

 いえいえ、先ほど帰られた○○さんも絵を教えてられていまして、夕べもここに見えられた五人の方が同じような塾をされていて、実に賑やかだったのですけれど、まぁ同業者の方がすこし集まればこれはなかなかのものです。ご承知の通り絵画塾なんざよっぽど手を抜かない限り人数は見れない。お月謝は増えない。その癖アトリエは画材ばかりがかさばって散らかり放題で、生ものの静物の管理はすこしでも気を緩めたらたちまち腐っちまうもんだし石膏像を並べたら、これは趣味といいますか奇癖といいますか、あいつの首の伸びかたが不思議だのこいつの髪かたちがいい重なりだ、なんてどうでもいいことぺちゃぺちゃ論議はじめても結論したことなんて一回もないでしょう? けれどそんな酔っ払い共がそれでもハキハキとしていれたウチが華だったと申しましょうか、突然じぃっとみなさん足靴の爪先になにか得体の知れないモノがつけた痕跡を見つけたように、一斉に目つきが険しくなりやがる。あんな時だけは、私は私だけでも、こいつら気ちがいの仲間にだけはなってたまるか、もの凄い勢いで酒は減るのに急にだあれも無口で、あぁ、こいつらとはやぱっりまったく違った人種だったのだと思えて、心底安堵したもんです。酔っ払いははじめのうちこそ無理遣りにでも見栄を張りたくって仕方ないものですが、それがいきなり胃液くさい歌を辺りはばからずうたい、何を思ったか電線にぶらさがったりしはじめる。ひょっとしてこいつら、そうして誰かに見てもらいたがためだけに、こんな自己破壊の衝動を何よりあり難たがってる狂った連中でしょうかねぇ? あぁいいえ、これはまったくあなたのことではありませんがね、ちょっと、まぁ、なんにせよほんのわずかの線のくるいや色のすき間の、こまかな絵具の練り加減にいちいち目をひからせている連中のことですから、他人のことばの節々にまで同じよう、聞き耳を立てている。そいつらがやっぱり同じ穴の狢な訳ですから、誰かがひとり、すこしだけ聴き役にまわった途端その気配を敏感に察知したのか、急にこの気配がまたたくまに拡がって、あっという間に次のことばを誰が言うのか、何を言うのか、もう、まるでいつものアトリエの風情といったもんですよ。あたしはいい加減、息苦しくなっちまいましていっそ手洗いにでも立つ振りでもして、払いはつけにしてひと足お先に帰っちまおうか、なんて考えも頭をよぎるのですがこちら様にももうずいぶん帳面させてもらっているものですからそうもいかず、かといって絵のこと以外にたいした話題を引き出すなんて社交性もない。どいつもこいつも蓋を閉じた貝みたいに口を結んで、黙々とさかずきばかり重ねながら、誰かが「ではそろそろ私はお先に失礼」なんて席を離れるのを待っている。ただ自分から席を立つという勇気なんぞ持ち合わせていない連中ですからね。それもそもそも絵を描くだけではもの足らずに人様に絵を教えましょうという傲慢な連中だ。頑固さにかけては人後におちない。こいつらの無言の会話というヤツは実に歯切れの悪いもので通夜のほうがよっぽど愉快にすごせますよ。たまの息抜きに寄った酒場でこんなみじめな思いをして、なんでこんな仕事を選んじまったんだろう、たまに河原にでもいっていっそこのままここでお仲間にでもなって、これまでの人生や残された余生をひっくり返して眺めるのも悪かねぇかもなぁ、なんて思いつめたりしましてね……、

 

 こんな会話を交わしたことは無論一度も無く、おそらくこれからもないだろう
(あったらイヤだw)
ボクが今の塾で絵を教えることになった切欠は、大学受験でお世話になった師匠が病気をし、後を託されたからですその当時は東京で就職しており、跡を継ぐ為に春になったら離職すると伝えせっかく仕事辞めるんだ、季節も頃合、頑丈なママチャリでも買って、野宿しながら九州まであちらこちらフラフラ立ち寄りながら二、三ヶ月くらい掛けてのんびり帰ってやろうと計画を立て、先生が倒れて以来アトリエの面倒を見ていたかつての受験仲間に伝えたところ、すぐ戻ってこい。すぐ授業してくれと懇願され、仕方なく夜行バスにもぐり込みました
それからはや、11年? 12年? 一日千秋
学生の頃から、ことある毎に絵は教えていたけれど、自分の教室を持つなんてのはもちろん初めてで
ちょっと緊張したなぁ、若かった
頭の中は今も子どもだけど

 

 さて
絵を教えている、と聞くと多くの人が、
自分は絵が苦手または描けないと答える
一種の公式のように、返事が返ってくる
ボクは楽器でも絵でも、人の何倍も練習してやっと人並みだったから、描けない人の気持ちは痛いほどわかる
楽器演奏、運動、作文、そして作画
それぞれの分野に向き不向きはあるが、一番才能が要らないのは、絵です
断言できます
必要なモノは根性ひとつ
必要な才能は根性、といったほうがより精確かな
絵が描けない、絵は苦手です、絵心がない
そのように多くの人が口を揃えます
しかし、それは絵が「描けない」のではない「描いてこなかった」だけなんです
子どもの頃学校で無理やり描かされ、優劣をつけられ、素晴らしい先達の作品を見て
「あぁ、俺にはボクにはわたしには無理」
と決めつけているだけ
誰でも最初はヘタクソです
描けなくて当たり前
この、「描けなくて当たり前」が、どのようにして「描ける」に変化していくかは、才能の問題ではありません
センスでもありません
況してや、「絵心」などという意味のひとり歩きする得体の知れないことばでは、決して満たされない
(えごころ、という語感はとてもすきだけど)

 また、写実はともかく
小学校の図工の教科書に載っている、名作の図版
これも少年少女のこころを縛ってゆくように思えます
たとえば、大ピカソ
青の時代はまだしも、キュビズム時代の絵なんて
なんじゃこりゃ? ですよ
「泣く女」をはじめて見たトキの感情は今でもはっきり思い出せます
「なんこれ、ぶきみ~www」みんなで大爆笑
これを見て、う~ん凄いと首を捻る大人の嘘を信じられる筈がない
浅井忠やマグリットは格好いいと思ったけれど
ムンクやスーチン、なんだか呪われそう
マティスデュフィゴッホ梅原は落書き
ポロックに至っては、なにこれ食えんのか?
といった感想で、それをどなんに素晴らしいと連呼されたって、ピンとこないものはいくら眺めてもピンとこない
あしたのジョーのほうが千倍もかっこういいよ
火の鳥のほうが、遥かに新鮮だよ
それが子どもの頃のボクにとっての「芸術」で、だったら「芸術」のこと考えるのはちょっと脇においとこうというのが、当時の結論でした
多くの人が、どこかでそれに類した感情をひきずっているように思います
芸術は素晴らしい
ピカソは天才
そんな社会の下地があって、しかしそれが理解できない場合

芸術理解不能≒私には絵心がない

そう無意識に結論づけされていったとしても、これはむしろ精神の自然な成長の一形態と見るべきでしょう

 

 しかし、芸術が理解できなくても、絵は描けるのです
絵が描けない、という方々にまず伝えたいのは
「みな日本語が喋れる」ということです
ことばを喋るということは、人間のもっとも高度な精神活動の発現です
そのとてつもなく高度な行為を、個性を自然に備えた成熟したことばを用い会話まで行える
(そもそもことばは会話するための道具なので、これも当たり前ですが)
これは、決して特別なことではなく、環境が整備されていることの証です
ボクがうまれた時も、日本語を喋ることはできなかった
当たり前のことです
ところが、毎日々々日本語は降り注いでくる
こちらにその気がなくても、親からだけでなく、テレビからもラジオからも、近所のスーパーでも、主題歌や落語や物売りの声があふれ返り、寝床や背中や乳母車の中で、ずーっとこれらの日本語を聞き続けてきた。その、ほとんど無条件のことばの膨大な流れにさらされ続けた経験の上に、やっと自分のことばが、ほんの僅かづつだが使えるようになっていく

「うまれた時から、ことばが溢れていた」

これが、やがてことばが喋れるようになる為の条件

 

 では、絵の場合どうだろう
絵が描けるようになる条件とはいったいどのようなモノなのだろうか
「絵を描く」と、ことばにすると単純無比だが、しかしそれを人が行ったモノとして分析する場合

・対象を見る
・対象を描く
・作品を見る

という過程に分解するととっかかりやすい

 まず、見る
絵を描く為に見る場合、ただ生活する為だけに見る時と大きく違って、対象を具体的に分析する必要があります
ここにカウンターに一本のビール瓶があります
それを大雑把な説明にまとめると、縦長の円筒
たいていその円筒を見下ろして描くでしょう

・見下ろされた
・縦長の
・円筒

そして、描きます
すると、カウンターでどんなに
「描けない無理ぃ!」
と連呼していたおにいちゃんも、ちゃんと描けるのです
縦長のものをとりあえず縦長に
円筒のものをどうやら円筒に
どんなにパースが狂っていても、ちゃんと見下ろした絵図として

それが、あまりにも目の前に置かれた実物と違って、それこそ理解不能だったピカソの名作のように、下手くそにしか描けない
だから意気消沈してしまう
しかし待って
縦長の物を、ちゃんと縦長に
円筒の物を、しっかり円筒に
この人、見下ろして描いたんだなぁ
と、実物が無くても、見た人には伝えられる程度には、しっかりと描けている
写実の習作で鍛えるべき第一要素を

・見えるものを、見えたように伝える

とするならば、この素描はその最大の目標をすでに易々と達成しているのです

 描かれたモノを見て、まず確認しなければならないのは、対象の構成要素を、作画が満たしているかです
見て、描き、見る
そして、見較べる
そこに認められるのは、観察の偏りによって生じた不用意な描画の積み重ねです
それらは対象と絵図の間に様々な誤差となっていますが、注意深く見直し、落ち着いて修正を加えていくことによって、確実に実物に近づいていきます

 

 私はこれまでそれこそ数え切れないほどの人に絵を教させて貰いました
なかには七十歳近くになって、中学の写生大会以来、筆を持ったことなんてないという方、それと同じような、完全な初心者の方も少なくありません
しかし、この「縦長の円筒を見下ろして」を描けなかった方には一度もあったことがありません
誤差の修正には、その絵の今の状態に適った、手順がうまれます
注意したいのは、訂正すべき間違いを放置したまま、気の向く箇所に加筆しても、根本が狂っていたのでは、いくら一所懸命に描いても実物に接近することは絶対にありえません

逆に言えば、どんなに間違ってもいい
じっくり観察して描いて、そこから確実に修正を加え入れる手間さえ惜しまなければ、作品は驚くほど実物に近づく
少なくとも、描き手が最初に描いて、見せるのを恥ずかしがった時の絵を思い出して比較すると、描き手が驚くほど進歩するのです
ですから、絵を描く上での肝心は

 ビビらず、描く

もうこれだけと言っても過言ではありません
絵が苦手、という方の心理の大部分が、この
ビビりの裏返しです
人間の超・高機能な視覚器官を経て得た、像情報と、自らの幼稚な作画とのあまりもの断絶に、多くの人が幼い頃は自然に実行できていた無邪気な作画欲を挫かれ
どうしても、絵の得意な友人たちがさらに上達してゆくのを眺め
芸術とかいうワケワカランことばの暗黒面に圧され
いつしか真っ白な紙にグッ、と線をブツける勇気が消えてしまっただけなのです

赤ん坊が、ことばを発することが出来なかったように
絵が描けない人は、まだ作画回路が未接続なだけです
それは、描けなくて当たり前の状態に過ぎず、しかし
赤ん坊と違ってすでに備わった高度なことばが、芸術だの絵心だのの漠然とした概念が、こころを鎖で縛っているだけなのです
もちろん、さっさか上達するモノではありません
これもことばと一緒
長い時間をかけて、自分の中に作画の作法を組み上げていかなくてはならず、そこで問われるのが根性、ということになります

 ただ、この「根性」も昭和的前時代的スパルタ式根性である必要なんてこれっぱかしもなく
ここで語らせて頂いた「根性」は「才能」への反義語的な意味で便宜上使わせてもらったものです
根性ではなく「経験」としようかいつも迷うところですが、お互い顔をつき合わせての会話であれば、語義を会話の流れで適度に着色できるけれど、それを作文でやるのはとっても冗長になるので、「根性」を採用しました笑
丁寧な作画と、勇気と、経験
それも作画しながら自然と備わる類の、描くことでしか育まれない、丁寧さ、勇気、経験です
何度も繰り返しますが、絵を描くことに特別な条件は要りません
それは描くことで拓かれる、それまではまったく未知の領域で、しかも誰も傷つけることもありません
題材によりますが、人の目に触れない限り、描くという行為が誰かを傷つけることは絶無です
だから、恐れないで
こころ、が、生活や経験の上にだけ発生したように
絵ごころ、も作画経験の上にしか備わりません
つまり、誰だって描いていくことを諦めなければ、その人だけの絵ごころが必ず見つかるのです

 

 絵は、ことばのように、それが無ければ人間社会の営みに困難をもたらすモノではありません
人は絵で会話しないから
象形文字等のことは、ここでは触れるまいぞw)
また人は絵で計算しません
人は絵を食べて生きる訳にいかず
(まれに食っちゃうって人もあるみたいだけどw)
絵を恋人にしたとあっては、あっという間に人類に子孫が絶えてしまうから
絵は描かなくったって、それはそれで済むんですよね
でも、だからこそたのしい

 音楽と似ていて、非なるもの
音楽もなくたって、生きるだけなら可能ではある
絵ごころないけど、カラオケはだい好きな方って
カラオケは歌わんけど絵は得意って方よりずいぶん多くて
仮にすっげー音痴でもたのしそうに歌って
周りをたのしくさせることだってよくある
同じ力は、絵にも必ずあると、信じてます
まる

 

 

信じる?

 

道化 を 信じる?


 告白しないといけないことって、
 すくなくありません。

 告白しないといけないことって
 ほとんどの隠し事と
 叶えられないまま、忘れられた約束の嘘、

 隠し事、と、嘘。は肯定と否定のゆれる波。
 銀いろの匙でまわす、ひとすじの髪
 自分だけの鏡に映す、誰かが昇る、

 いつでも裁てる蜘蛛の糸、人にだけ吐く嘘を。
 鋏のやいばのあまい噛み合わせを、きしゅ

 きしゅ。と確かめるのは、
 わたしは、
 いつでも、あんたの糸を裁ってきたから、

 自分には吐けない、嘘を裁つ。
 自分にだけは、吐けない、嘘を裁つ


  ・ ・ ・ ・ ・


 ウチには洗濯機がありません
だからコイン・ランドリーという便利場を
小春日に照らされたゲートボ ール場のように仰ぎ見る気持ちを
常に抱いてなくてはならないと、よ く間違いている
洗濯機だけではありません
ウチには色々とないのだ、うっふふ
それらいらないモノが文明世界の物質面を常々刷新してゆく場合
誰かが常に先頭をはしる
その傍ら、いつだって誰かが置いてけぼりだ
わたくしの場合、大体そちらの「常」だといって、な~にも問題がないと訊く

 だって

 常套句が

「かつての屯田兵の日記では彼らの生活の日常は云々」

「アフリカでは何秒毎にこどもの命が失われていて云々」

と、おっさんになっても社会的な熟成を必死に拒む幼い記憶が、いま目に映る平成末期のこの紊乱した社会を推し計る、極論で語れないはずの日常の型を無理槍こじつける、道化に求められる条件の幾つかを、どうにかして確かめたいのだ。
確かめながら、人に問う
多面体であるサディスティックと、マゾヒスティックの検証
それが通奏低音
責任の所在がいつも不明で笑えない、笑


 * * * * *


 先日、コインランドリーと自宅間を三往復。
積み重なった洗濯物を運び、洗った
絞られた洗濯物は、物干し場と化したアトリエにずらり並んだ
イーゼルは便利器
カンバスを架けるだけが能じゃあない
他に何を架けるかのセンスが問われる
今朝は早起きし、生徒さん達が来る前にお片づけ

 三往復分の洗濯物ってどの位の量?
喩えれば、ピラミッドに錯覚しそうな形象といっても、なんのこっちゃだろう
あの奇跡の建造物と、蒸れきって饐えきった脱衣の堆積を同一視する気持ちが解るか?
そんな大質量の端からちぎっては投げ、でっかいプラスチックの篭に力の限り詰め込むのだ
詰め込む詰め込む。
詰め込めど詰め込めど一向に減ってゆかないヨゴレものを、何と喩えられるだろうと考えて、ピラミッドとすれば

 ギチギチに詰め込んで三往復もしてまだまだ減らず
、身体より、心が疲労するよね、
お洗濯
洗濯ものに限らない
あらゆる片づけ、苦手だよ

腐海に沈みそうね」

 学生の頃の下宿をそう評されて
冷蔵庫の下に王蟲の抜け殻を拾う
共生、ということばが好きだから
今以て大差ないが、焼き払わずに共存してい・・・・、る


 * * * * *


 ピラミッドには、不思議な力があるって言うよね
死体が腐らないとか
集中力や判断力が増すとか
ピラミッドに置かれた刃物は、刃こぼれし難くなる。だっけ?
内部構造も
出入口がないので精確には解らないけれど、人が入れる場所以外にも、部屋や回廊がある事が実験で分かっているんだよね。確か

 よく覚えてないや
 古い記憶だもん


 世界に謎はたくさんだから
神々の指紋』って本、読まれた方もいると思うけど、あれ面白いよね
メルカトル氏が、
メルカトル図法を考案した際、参考に(パクリ?)したとされる、現存する古地図に描かれているのは分厚い氷に閉ざされる以前の、南極大陸がまだ地表を有していた遥か昔の沿岸地形で、現在汎く言われる生物の進化過程上、その頃の地球に人類はまだ生まれてすらいない・・・・、
つまり、存在する筈のない地図が、しかし現実に存在するのだ
ではこの地図の作者は一体誰なのだ…なんて、鳥肌立っちまう
プギャー^^

 UMA(未確認生命体)とか。
A・C・クラークの『海底牧場』、小学校の図書室で時間も忘れて、謎の巨大な影の追跡にドキドキした。
シー・サーペント
雪男とか、モスマンとか

ネッシーとか。イッシー
眉唾さんかも知れないけれど、謎には夢があっていいよね
不思議があって素敵


* * * * *


不思議って言えば。
みんなは幽霊を信じる?
幽霊は不思議じゃない事実だ!
って意見の方からはお叱りを受けるかも知れないけれど多分霊感ゼロのぼくは、そこまで断言できません
じゃあ信じるって聞かれたら、信じるよ、めいびー

 何故ってちょっと理屈じゃ説明できない体験のひとつふたつ、誰にでもあるでしょう?

 とある日曜日。
目が覚めてしばらく布団の中で雨を聞きながら、考え事をしていたところ、アトリエの方からデッサンの音がする
寝せ気味にした硬目の鉛筆が、紙に速い線を重ねる音だ
デッサンは時々手を休め、速度を変えながら、いい調子なのが伝わる

 モチーフは何だろう・・・・

 音の具合は……、東向きの姿勢。
だからレモンとグラスか、真紅の布にグレープフルーツふたつの瓶、牛角に幾何形体の静物か、アリアドネ
鉛筆だからアリアドネかな

 日曜日、アトリエはお休み
時計は午前8時前
神様だってまだ寝てる
描いているのは、誰だろう

 この、誰もいない筈のアトリエから聞こえてくるデッサン。
前にも一度だけありました
その時も、静かな雨が降っていて
これで二度目。
寝ぼけてなんかいません
酔いも、完全に醒めています
前回、初めての時は、足音をさせると同時に筆勢がぱったり止んだので
今回はより慎重に。抜き足、差し足
けれどまたしても
うっかりちいさな音を立ててしまいました。

 するとデッサンは、すうっと消えるのです
デッサンだけでなく、紙も、鉛筆も、体ごと芯まで
居なくなるのではなく、その全てが消えてゆく感じ
どこか遠くの世界に通じる扉の向こうへ、ふっ、と
帰ってゆく
当然アトリエを覗いても、もう誰の姿もありません

 デッサンの音から伝わったのはモチーフとそれを見つめる目、
そして画面の平面。
それらが結ぶ三角の中心に在る、描き手の魂
すると一瞬、その誰かの感情のようなものが滲むようにぼうっと残されて、見えるような気がするのです
消えてしまった後にも、魂のあっただろう辺りが、かすかに光り輝いて


 * * * * *


 勘違いかもしれないンだけど、なぁんかリアルなんだよね
これって幽霊?
日本の幽霊はコワいのが多いけど、外国の幽霊はなかなか楽しい奴がいる。らしいね
タップを上手に躍ったり
子どもみたいな悪戯したり
だったら絵が好きな幽霊だって、いたっていい

きっとデッサン、上手だよ

 

 

水 の いざない

 

 好きな季節は? に、はじまる会話はいつも飽きない
俺は夏。いやさ春。あたしは秋よ。もちろん冬も良いだろう
人の意見はどれもとてもたのしく、その理由も豊富
季節は一年の約束。かならずまた来て、まだ裏切らない
じゃあ嫌いな季節は?
 
 梅雨かな・・・・? 梅雨だよね・・・・、うん、梅雨だけは考えたくもない
夏冬、春秋とひとしきりの嫌いの後に誰かがふと梅雨だと口火を切った
途端、皆が馬の口をそろえるように唱和する
別格である梅雨。梅雨の人気は圧倒的である
…なるほどでは梅雨が嫌いなその理由とは?
じめじめするから・・・・洗濯物が乾かないで困る
パンがカビる…ナメクジだい嫌い・・・・
理由は様々、しかもそのどれも納得いくものばかり
(ナメクジもよく見ればかわいいけどネ)
 
 梅雨。それは度過ぎた潤い
湿度の急激な上昇に、乾きのおそい汗がベッタリ流れると、人の心は閉ざされる
梅雨を考えたくない、それは窒息感にやや近い
からりと澄んだ空気であれば感じもしない、皮膚の表面に汗がいちまい膜を張れば、光を求める木花のように皮膚細胞が、へっへっ。呼吸をしていたことに改めて気づく
気温変化のなめらかさも梅雨の罪
いや気温変化がなめらかだから罪ではない
湿度が高く、気温も下がらないことがベタベタとした怒りをよぶのだ
それまでの朝夕すがしく、昼は風薫る。木陰の心地よさ。春の終わりにふさわしかった五月
それがどうだ、この低く垂れ込める空
夕映えに響けばななつの鴉をながめても、浄土、なんて普段考えもしないような語句が連想される、鐘の音もすいこむ
宇宙へ向けた熱の放射もありゃしません
ジメジメ。この語感からもう不愉快だ
雨乞いならぬ風乞い? そんな祈りもしたくなるような停滞の空
風は皐月とあれほど見上げられたのに、今や見向きもされない空だ
 
 梅雨とは、つまり何もかもが億劫だ
たのしみであったはずの寝床まで不愉快だ
まるで一種の天災のように、梅雨は今年もやってきて、親のカタキとまで言われる姿を何度も見てきた
そのように、水は、時に人の思考を停止させる
 
 * * * * *
 
 しかし。梅雨はそれほど好きじゃあないけれど嫌いでもない
など言う人もたまにある、加えて
すきな季節は梅雨です! と宣言するツワモノも稀にある
そんな人にとって梅雨は、大抵あじさいと蝸牛がセットで好きで、そこに雨が降ってなければ絵にならないのだそうだ
どうやら梅雨が好きな方(もしくは嫌いじゃない)は雨が好きで、当然雨は何かしらに向かって降っていなければならず、それをじっと観察する趣味を持つ方のようだ
雨が人の姿を消した路ばたにひとりしゃがみ込み、いつもは元気よく、分解されたおけらの骸などを運んでいる蟻も水の流れに匂いをさらわれ戸惑う、お気に入りの色のちいさな傘に護られたところから、あじさいの葉に這うかたつむりを見つけその歩みにうっとりした時、雨は最早不快物質ではなくなった、むしろこの自分だけの世界を妨げる、様々な雑音を遠ざけ、もっと、うっとりする為の安らかなバリアーになるのだ
 
 雨が屋根を打つ音につつまれた家で過ごすのが好きだから梅雨も好きだという人もいる
雨音は強いほど良いという声は梅雨好きの特徴か
そこに、
 
「閑さや岩にしみいる蝉のこえ」
 
この芭蕉の句の静寂を連想してもあながち間違いでない、気も、する
梅雨の激しい雨音がしつように単調に迫りきて、そこに静かを感じる共通感覚は、山隘を覆いつくす蝉の鳴き声と連なる雨音。どちらも激しくなればなるほどひとりの人間のちっぽけさを際立たせる、これこそがこの静寂の正体になる
なるが、蝉の声と雨音とでは静寂を感じる向きが全くもって違うのもまた事実。それは蝉の鳴き声から感得するものが炎天下の山隘に立つ孤独や充足、強烈な光陰の対照へと向きあう事によって気づく、明確な自己認識、精神も含めた空間定義であり、雨音にはそうした自己中心的でありながらも客観性を伴った巨視感はない
では雨音が人の心にどういった作用を及ぼすのかといえば、主体性の放棄。または一定の指向性だけに与えられた、それ以外の感応力の欠如といえる
分かり易くいうなら、雨音には人の論理的思考を妨げる力があるのではないか
何故なら人は水の中では生きられない生命体であり、しかもそれを構成する成分の大部分も水であるという、この矛盾とも言える概念に呼吸する無意識が囚われた瞬間より、水音に響かれた屋根と壁とに護られた部屋でそれが改めて細胞ひとつひとつと結び付き、その中心に潜む、内向した無意識に還る自己喪失であるからだ
太陽の輝きが、光と影をくっきりさらけ出して見せるのとは別に、水には、落ちて集まり流れ去る水の行方の輪転感に、人は概念の輪郭を侵蝕してぼうっとさせる力があるのだ
 
 火のイメージを、創造と破壊、祈りと怒り
水のイメージを、停滞と輪廻、呪いと安らぎで記した詩人がいたが、特に安らぎに繋がるのはやはり海や胎内というフシか
軒先の睡蓮鉢にたっぷり張った水に手をぴちゃぴちゃ浸して、土をいじくってる時とは違う、火を点した時とも違う、すーっとすい込まれてゆくような気持ちになる
水鉢にはどこから来て生まれたのか不思議でならんが、いつの間にか小さな貝が住み、さらに細かな虫も泳ぐ
このわずかな水嵩にして、地上の虫や植物を見るのとは全く異なる感動をする。白墨の粉末が午後の陽射しを受けて舞うような、芥子つぶほどの虫が無重量のように泳ぎ回る姿には、異世界の法則があるようにすら感じる
 
 極論すれば、つまり梅雨は水である
 
 水は音をよく通すと知識の上で理解してはいるが、実感としてあるのは、いつもは聞こえないあの音
川の流れの下、海のうねりの内でしか聞こえないあの音を、地上では決して聞くことはできない水の中にだけ鳴る音を、魚はその耳石で捉えていて、満月の大潮の産卵に、虫はその前脚で鬨交わしている
音は、水と細胞の親和性の証でありながら、水そのものが呼び覚ます恐怖を語る
音は、太古の煮えたぎる硫化水素の海で生まれた単細胞生物が感じていた諦念の恢復のようだ
 
 人のこの身体が大部分、水ならば矢張り私の中でもそうした音が今もって繰り広げられているのだろうが、連濁して届く空からたどる、短い旅の水に映した逆さのしずく世界が窓に弾け続ける、それを言葉で尽くすことの限りがあるから、雨音には静寂が生まれるのか 
水鉢に浸し、屈光し平たになった掌を眺めながらそんなことを、母に押し出され羊水を吐き出して以来、終ぞ忘れることのないこの水の中で揺らして思う
 
 * * * * *
 
 そう考えたら、ボクも梅雨は嫌いだけど、好きなところもある
いや、実はとてもすきですw おわかりでしょうや
春の雨と違って、胸を張って? 好きです! とはいかないけれど、雨と合わせて音楽を聴くのは心地いい
ドビュッシーとか、ショパンとかサティとか。ベタだけど
傘の中も好きだし
部屋で聞くのも好きだし
薔薇の新しい緑が水を弾いてる姿、好きだしね
どうしようもなく気鬱になることもあるけど、ちっぽけな人間の雲の上にある青空を想像するのも楽しい
 
 今日も梅雨だねぇ・・・・
 
 

このぶろぐ

このぶろぐはアテクシが日々とり憑かれやすい、とり留めのつかない邪な発想に、本や映画やラジオ類、または散歩等を通じたシゲキによって、とり留めのつかない回復をめざす、無目的的な目的のぶろぐです

つまり

テケトーにことばをつむぐだけのものですおわかり?

目的なんてものはあってない

あるのかないのか、書いてるアテクシがわかってない

わかってないことだけ、それはそれはわかっているわけですね

にほんご大好き♡