水 の いざない
好きな季節は? に、はじまる会話はいつも飽きない
俺は夏。いやさ春。あたしは秋よ。もちろん冬も良いだろう
人の意見はどれもとてもたのしく、その理由も豊富
季節は一年の約束。かならずまた来て、まだ裏切らない
じゃあ嫌いな季節は?
梅雨かな・・・・? 梅雨だよね・・・・、うん、梅雨だけは考えたくもない
夏冬、 春秋とひとしきりの嫌いの後に誰かがふと梅雨だと口火を切った
途端、皆が馬の口をそろえるように唱和する
別格である梅雨。梅雨の人気は圧倒的である
…なるほどでは梅雨が嫌いなその理由とは?
じめじめするから・・・・洗濯物が乾かないで困る
パンがカビる…ナメクジだい嫌い・・・・
理由は様々、 しかもそのどれも納得いくものばかり
(ナメクジもよく見ればかわいいけどネ)
梅雨。それは度過ぎた潤い
湿度の急激な上昇に、乾きのおそい汗がベッタリ流れると、 人の心は閉ざされる
梅雨を考えたくない、それは窒息感にやや近い
からりと澄んだ空気であれば感じもしない、皮膚の表面に汗がいちまい膜を張れば、光を求める木花のように皮膚細胞が、へっへっ。呼吸をしていたことに改めて気づく
気温変化のなめらかさも梅雨の罪
いや気温変化がなめらかだから罪ではない
湿度が高く、気温も下がらないことがベタベタとした怒りをよぶのだ
それまでの朝夕すがしく、昼は風薫る。木陰の心地よさ。 春の終わりにふさわしかった五月
それがどうだ、この低く垂れ込める空
宇宙へ向けた熱の放射もありゃしません
ジメジメ。この語感からもう不愉快だ
雨乞いならぬ風乞い? そんな祈りもしたくなるような停滞の空
風は皐月とあれほど見上げられたのに、今や見向きもされない空だ
梅雨とは、つまり何もかもが億劫だ
たのしみであったはずの寝床まで不愉快だ
まるで一種の天災のように、 梅雨は今年もやってきて、親のカタキとまで言われる姿を何度も見てきた
そのように、水は、時に人の思考を停止させる
* * * * *
しかし。梅雨はそれほど好きじゃあないけれど嫌いでもない
など言う人もたまにある、加えて
すきな季節は梅雨です! と宣言するツワモノも稀にある
そんな人にとって梅雨は、大抵あじさいと蝸牛がセットで好きで、 そこに雨が降ってなければ絵にならないのだそうだ
どうやら梅雨が好きな方(もしくは嫌いじゃない)は雨が好きで、 当然雨は何かしらに向かって降っていなければならず、 それをじっと観察する趣味を持つ方のようだ
雨が人の姿を消した路ばたにひとりしゃがみ込み、いつもは元気よく、分解されたおけらの骸などを運んでいる蟻も水の流れに匂いをさらわれ戸惑う、お気に入りの色のちいさな傘に護られたところから、あじさいの葉に這うかたつむりを見つけその歩みにうっ とりした時、雨は最早不快物質ではなくなった、 むしろこの自分だけの世界を妨げる、様々な雑音を遠ざけ、 もっと、うっとりする為の安らかなバリアーになるのだ
雨が屋根を打つ音につつまれた家で過ごすのが好きだから梅雨も好 きだという人もいる
雨音は強いほど良いという声は梅雨好きの特徴か
そこに、
「閑さや岩にしみいる蝉のこえ」
この芭蕉の句の静寂を連想してもあながち間違いでない、気も、する
梅雨の激しい雨音がしつように単調に迫りきて、 そこに静かを感じる共通感覚は、 山隘を覆いつくす蝉の鳴き声と連なる雨音。 どちらも激しくなればなるほどひとりの人間のちっぽけさを際立た せる、これこそがこの静寂の正体になる
なるが、 蝉の声と雨音とでは静寂を感じる向きが全くもって違うのもまた事 実。 それは蝉の鳴き声から感得するものが炎天下の山隘に立つ孤独や充 足、強烈な光陰の対照へと向きあう事によって気づく、 明確な自己認識、精神も含めた空間定義であり、 雨音にはそうした自己中心的でありながらも客観性を伴った巨視感 はない
では雨音が人の心にどういった作用を及ぼすのかといえば、 主体性の放棄。または一定の指向性だけに与えられた、 それ以外の感応力の欠如といえる
分かり易くいうなら、 雨音には人の論理的思考を妨げる力があるのではないか
何故なら人は水の中では生きられない生命体であり、 しかもそれを構成する成分の大部分も水であるという、 この矛盾とも言える概念に呼吸する無意識が囚われた瞬間より、 水音に響かれた屋根と壁とに護られた部屋でそれが改めて細胞ひと つひとつと結び付き、その中心に潜む、 内向した無意識に還る自己喪失であるからだ
太陽の輝きが、光と影をくっきりさらけ出して見せるのとは別に、水には、 落ちて集まり流れ去る水の行方の輪転感に、人は 概念の輪郭を侵蝕してぼうっとさせる力があるのだ
火のイメージを、創造と破壊、祈りと怒り
水のイメージを、停滞と輪廻、 呪いと安らぎで記した詩人がいたが、 特に安らぎに繋がるのはやはり海や胎内というフシか
軒先の睡蓮鉢にたっぷり張った水に手をぴちゃぴちゃ浸して、 土をいじくってる時とは違う、火を点した時とも違う、 すーっとすい込まれてゆくような気持ちになる
水鉢にはどこから来て生まれたのか不思議でならんが、 いつの間にか小さな貝が住み、さらに細かな虫も泳ぐ
極論すれば、つまり梅雨は水である
水は音をよく通すと知識の上で理解してはいるが、 実感としてあるのは、いつもは聞こえないあの音
川の流れの下、海のうねりの内でしか聞こえないあの音を、 地上では決して聞くことはできない水の中にだけ鳴る音を、 魚はその耳石で捉えていて、満月の大潮の産卵に、 虫はその前脚で鬨交わしている
音は、水と細胞の親和性の証でありながら、 水そのものが呼び覚ます恐怖を語る
人のこの身体が大部分、 水ならば矢張り私の中でもそうした音が今もって繰り広げられてい るのだろうが、連濁して届く空からたどる、 短い旅の水に映した逆さのしずく世界が窓に弾け続ける、 それを言葉で尽くすことの限りがあるから、 雨音には静寂が生まれるのか
水鉢に浸し、屈光し平たになった掌を眺めながらそんなことを、 母に押し出され羊水を吐き出して以来、 終ぞ忘れることのないこの水の中で揺らして思う
* * * * *
そう考えたら、ボクも梅雨は嫌いだけど、好きなところもある
いや、実はとてもすきですw おわかりでしょうや
春の雨と違って、胸を張って? 好きです! とはいかないけれど、雨と合わせて音楽を聴くのは心地いい
傘の中も好きだし
部屋で聞くのも好きだし
薔薇の新しい緑が水を弾いてる姿、好きだしね
どうしようもなく気鬱になることもあるけど、 ちっぽけな人間の雲の上にある青空を想像するのも楽しい
今日も梅雨だねぇ・・・・